服部 之総

「日本にて役所を定め置き、品物渡し方、並びに魯西亜人持ち越したる金銀品物も、その所に於て取扱ふべし。魯西亜人市店にて択みたる品は、商人売買値段に応じ、船中持ち渡しの品を以て弁ずべし。役所に於て、日本役人取計ふべし。」
というのだ。その実際については、蘇峯氏の『近世日本国民史』から、川路(聖謨)の日記を借りてこよう。
「廿三日(安政元年十二月)けふ下田にて、異国人の船中欠乏品を売る所へ行みる。蒔絵器磁器等多く出し之有り候。髪を組みて長くして下たるは南京の人也といふ也。日本人に少しも変らず、ヘロヘロといひて、猪口の直段を付け居り申し候。その所へ障子をからりと明け候て、ロシヤといひながら大男入り来る。左衛門尉(川路)与三郎(村垣)をみて、御機嫌ようといひながら笑ひて冠り物を取りて、うなづくが如く礼をなす。これ大かた魯人の仕方也。かかるところ、長崎といへども曾てなし。胸塞りて、直に立ち出で候」(第三十三巻、一八九頁)。
 オランダ領事の緩優貿易の発端というのも、あながち揚足取りではない。しかし字句面では揚足取りのようにみえる。
「右の内(第五条を指す)には、品物取替の儀、政府に限り候事、取極は之なし、魯西亜人にて究て外に品を付け申すべく候」。

 ところが、おかしなもので、はじめはある重要な歴史的関連を明らかにする目的から、――たとえば、この場合では幕末の日本開国を、米国の手で行わせる上に一つの役割をしたのが、横断太平洋汽船航路問題である――ということを明らかにする目的から、太平洋定期航路の発生をしらべはじめてみると、行掛り上その船名や、トン数やといった、いわばどうでもいいようなことがらまで気になってくる。
 だが、それでもまだ純粋に好奇的な考証趣味におちこんでしまったとは、かならずしもいえまい。
 たとえばある文献に最初の横断太平洋定期就航船は一八六五年(慶応元)で船は米国の太平洋郵船会社の「コスタリカ」、「ニューヨーク」、「オレゴニアン」、「ゴールデン・エージ」のうちのどれかだ、と書いてある。
 第二の文献には船名を挙げないで一八六七年にサンフランシスコから横浜に向ったとあり、第三の文献をみると、一八六七年の元旦にサンフランシスコを出て二十二日目に横浜に着いた「コロラド」がそれだとある。
 こうなってくると、いったいどれが正しいのか確定したい、ということになってくる。

 九代十代にわたるいわゆる田沼時代は、都市の商業および高利貸資本が台所口で武家支配を抑えるようになった背後の時代的転換を――同時に、内地商業の国民的統一への軌道を――告示した時代だったが、京幕融和も廃り、ようやくラディカルな尊王思想が、反批判として定立された。竹内式部、山県大弐。カムフラージュされた形で賀茂真淵、本居宣長以下の国学派がそれである。しかし、幕末政局を貫流した中心スローガン「尊王攘夷」は、これら国学派尊王論に由来しないで、水戸斉昭に主唱された。
 ゆくすえの幕政倒壊を見越して、その場合にも一門だけは残るようにとの東照神君の神謀から水戸だけは堂々尊王の家筋と定められた、などという説は、まっ正直に家康を神様扱いにする筋から出たものというほかはなかろう。実際は幕権大磐石時代に淵源する水戸学の尊王と徳川家祖法の鎖国とが、時局にたいする副将軍的念慮から結合されたにすぎない。ただ斉昭は幕権に基づいて水戸家尊王論を運用する代りに、水戸家尊王論によって幕策を旧軌に戻そうと試みただけである。とまれそのため天保以降彼の手で「京都手入」が創始された。