蘭 郁二郎 その2

 私はこの洞穴のような空虚に堪えられなくなった、そして追い立てられるように椅子から立つと彼に近寄って、恰度取合せた仁丹の容器に付いている鏡をとり出すとよく検死医がするようにそれを口元に近付けて見た、矢張り鏡は曇らない、彼は完全に呼吸をしてないのだ……私は押しもどされるように椅子に帰って腰を掛けなおした。
 四時。もう二十分も経った。その瞬間不吉な想像が後頭部に激しい痛みを残して通り過ぎた。彼は自殺したのではないかしら、日頃変り者で通っている彼のことだ、自殺するに事を欠いて親しい友人の私の面前で一生に一度の大きな芝居を仕乍ら死んで行こうとしているのではないだろうか、死の道程を見詰めている。そんな不吉な幻が私に軽い眩暈を感ぜしめた。
 彼の顔は不自然に歪んで来た、歪んだ頬はひきつけたように震えた。私は自分を落付ける為に勢一杯の努力をした、然し遂にはこの重苦しい雰囲気の重圧には耐えられなくなって了った、そうして、死の痙攣、断末魔の苦悶、そんな妙な形容詞が脳裏に浮んだ瞬間私は腰掛けていた椅子をはねのけて彼を抱き起し、力一杯ゆすぶって目をさまさせようと大声で水島の名を呼んでいたのだった――。

 小学校三年の時、一級上の女生徒と、なぜか一緒に遊びたかったけれど、言い出す元気もなく、その子の家の『小田』と書かれた表札を何度も読みながら、[#「、」は底本では「、、」]わざと傍目も振らず行ったり来たりして、疲れて家に帰った――そんな遠い遠い昔の事を不図偲い出して、又チェッと舌打するのである。
 ……といって、野村は、爪を截りながら、私の顔を覗きこんだ。私は一寸、いやあな気持がして、
『誰でもさ……』
 とタバコの煙りと一緒に吐出した。

 森源――というのは綽名で、実は森田源一郎というレッキとした名があるのだが、村人は誰も森源、森源、といっていたし、なんだかその方が彼の風貌をしっくりと表現するような気がし、私も口馴れたその名を呼ぶことにする。
 奇人森源についての、村人の噂は、或は隠れた大学者だともいい、或はただの、寧ろ狂人に近い変人なのだともいうけれど、いずれにしても、村人とは絶えて交際しない『変り者』であるということだけは一致していた。
 その、森源の家は私の借りていた家から四五丁はなれた、低い谷間にあって、この辺では珍らしい洋式を取り入れた建て方のものであった。そこに行くまでには、自然の温泉を利用した温室が幾棟か並んでい、その温室の中には、蔓もたわわに、マスクメロンが行儀よくぶら下っているのが眺められた。
 これは森源が考案したものだそうだけれど、今ではこの村のあちこちに、これを真似た自然温室が出来ていて、有力な副業になっているそうである。この点、森源は相当感謝されてもいい筈なのだが、しかし村人は彼に『変り者』という肩書をつけて、強いて交際しようとはしない――

蘭 郁二郎

 ――私は自分の弱い心を誤魔化す為に、先刻から飲めもしない酒を飲み続けていた。
 第三高調波を描く放送音楽……
 蓄電器のように白々しく対立した感情……
 溷濁した恋情と、ねばねばする空気……
『なに考えてんだィ、さあもう一杯』
 内田君は、兎もすれば沈み勝ちの私を、とろんとした眼で見据えながら、ビールのコップを取上げた。
『うーん』
 私は熱っぽい目を擦りながら、手を出し
(あッ……)
 ドキン、胸の中で音がした。
 突出されたコップの中には黄金色の液体を透して、内田君の右頬の小さな古傷が、恰度レンズを透かして見た時のように、尨大にコップ一杯に拡がって浮出していた。
 而もその上、その傷は私が一時の興奮から殺ってしまったあの迪子の傷とソックリで、捻れたような赤い肉の隆起が、蚯蚓のように匍廻っていた。

 中田は、なぜそんなところへ行ったのか、我ながらハッキリとした憶えはないのだが、総てに、あらゆるものに、自棄を味わった彼は、飲みなれぬ酒に胸をただらし気まぐれに乗った郊外電車をとある駅に棄てると、ただ無茶苦茶に、ぶつぶつと独言をいいながら――それは多分、かの女に対する呪咀と、ああ、それはなんといういたましい思い出であろう。彼は幾度か彼の女銀子の幻像を撲倒し引千切りしてきたのだが……と同時に、又自分自身を嘲笑する言葉もあったろうが――歩き廻っているうち、いつの間にか、そんな荒れ果てた景色の中に、自分自身を発見したのであった。
 フト気がついてみると、次第に酔は醒めて来たらしく、思わず、ぶるぶるッとする寒さが、身に沁て来た。そして、飲みなれぬ酒は中田の頭をすっかり掻き廻してしまったらしく、頸をかしげる度に頭の中で脳髄が、コトコトと転がるように感じた、
(どうにでもなれ――)
 彼は、口の中で自分を罵ると、グッと外套のポケットに手を突っ込み、又、ひょこりひょこりとあるき出した。
 蕭条と荒れ果てた灰色の野の中を、真黒い外套と共に、あてもなく彷徨よっている中田の顔は、世にもすさみ切った廃人のそれであった。

 或は又、喫茶店なんかで人が沢山話し合っていますと、却ってどの話もハッキリ聴えないものですが、その中でひょいと『なにをぼんやりしているんだ』そんな声が聴えて、ハッとされたことはありませんか――これを幻聴と申しますが――私の場合は、それを押拡げて机に向ってぼんやり考えごとをしている時、ふと何処からともなく『今Mデパートから飛下りて死んだ人があるよ』そんな囁きが聴えたとします。そして、翌日何気なく開いた新聞の社会面にそのニュースを発見したとしたら、どんなに恐ろしいことでございましょう。
 そんなことが私にはよくあるのです。街の中を消防自動車が物凄い唸り声を上げて馳って行きます。私はその喧しい唸り声の中に『今に――座が焼けているんだ』そんな言葉をハッキリ聴きとることが出来るのでございます。そして、前申しましたように、恐ろしいことにはそれが、事実とぴったり符合するのでございます。
 ――神経衰弱に違いない、私もそう思ったのでございました。混迷錯綜する都会の、あくどい悪戯に違いない、そう思って、田舎にかえってもみたのでしたけれど……
 やっぱり駄目でした。あの朗らかに歌う小鳥の唄の中にも、血なまぐさい殺人のニュースが、死屍や腐肉の味覚が、無遠慮にまきちらされているのでございます。